本当に人を試したかったら、権力を与えてみることだ。, こうして人間に生まれてきたからには、やはり何か生きがいが感じられるまで生きている義務があろう。, この悲しい世界では、不幸は皆に訪れる。 George Alfred Townsend, The Life, Crime and Capture of John Wilkes Booth. Harcourt, Brace & World, 1936. 185–6 and 439 n. 17. ヘレン・ケラー(英語の名言) / 福沢諭吉 / ナイチンゲール(英語の名言) / エレノア・ルーズベルト(英語の名言) / 津田梅子, 【学者・発明家】 アンネ・フランク(英語の名言) / 中村天風 / 升田幸三 / 羽生善治 / ジョセフ・マーフィー / ダイアナ妃(英語の名言), 1863年11月19日、ゲティスバーグ国立戦没者墓地の奉献式で行われた「ゲティスバーグ演説」は、わずか2分ほどの演説であったが、自由と平等の原則を表現することに成功し、米国の生存のために戦い、命を落とした人々の栄誉を誇らかに称えている。米国史上最も重要な演説の一つと評価されている。, 87年前、われわれの父祖たちは、自由の精神にはぐくまれ、人はみな平等に創られているという信条にささげられた新しい国家を、この大陸に誕生させた。, 今われわれは、一大内戦のさなかにあり、戦うことにより、自由の精神をはぐくみ、自由の心情にささげられたこの国家が、或いは、このようなあらゆる国家が、長く存続することは可能なのかどうかを試しているわけである。, われわれはそのような戦争に一大激戦の地で、相会している。われわれはこの国家が生き永らえるようにと、ここで生命を捧げた人々の最後の安息の場所として、この戦場の一部をささげるためにやって来た。われわれがそうすることは、まことに適切であり好ましいことである。, しかし、さらに大きな意味で、われわれは、この土地をささげることはできない。清めささげることもできない。聖別することもできない。足すことも引くこともできない、われわれの貧弱な力をはるかに超越し、生き残った者、戦死した者とを問わず、ここで闘った勇敢な人々がすでに、この土地を清めささげているからである。, 世界は、われわれがここで述べることに、さして注意を払わず、長く記憶にとどめることもないだろう。しかし、彼らがここで成した事を決して忘れ去ることはできない。, ここで戦った人々が気高くもここまで勇敢に推し進めてきた未完の事業にここでささげるべきは、むしろ生きているわれわれなのである。われわれの目の前に残された偉大な事業にここで身をささげるべきは、むしろわれわれ自身なのである。, それは、名誉ある戦死者たちが、最後の全力を尽くして身命をささげた偉大な大義に対して、彼らの後を受け継いで、われわれが一層の献身を決意することであり、これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することである。, こちらに五分の理しかない場合には、どんなに重大なことでも、相手に譲るべきだ。こちらに十分の理があると思われる場合でも、小さいことなら、譲った方がいい。, 君の決心が本当に固いものなら、もうすでに希望の半分は実現している。夢を実現させるのだという強い決意こそが、何にもまして重要であることを決して忘れてはならない。, 細道で犬に出会ったら、権利を主張して咬みつかれるよりも、犬に道を譲った方が賢明だ。たとえ犬を殺したとて、咬まれた傷は治らない。, 自己の向上を心がけている者は、喧嘩などする暇がないはずだ。おまけに、喧嘩の結果、不機嫌になったり自制心を失ったりすることを思えば、いよいよ喧嘩はできなくなる。, 人格は木のようなものであり評判はその影のようなものである。影とは、我々が人の性格をどう思うかということであり、木こそが本物である。, たいていの人は災難は乗り越えられる。本当に人を試したかったら、権力を与えてみることだ。, この悲しい世界では、不幸は皆に訪れる。その場合、ひどい苦しみを伴うことがある。完全に癒すことができるのは、時をおいて他にはない。, もし最後の結果が良ければ、私に浴びせられた非難などは全く問題ではない。ただし、最後の結果が悪ければ、たとえ十人の天使が私を弁護してくれたところで、何の役にも立ちはしない。, 自分でできることやすべきことをその人の代わりにしてあげても本当の助けにはならない。, 相手を動かそうとする時には、心のこもった、押しつけがましくない説得の手を用いるよう心がけることだ。「一ガロンの苦汁よりも一滴の蜂蜜を用いたほうが多くの蝿がとれる」ということわざは、いつの世にも正しい。人間についても同じことがいえる。, 大統領にしても、靴磨きにしても、世のため、人のために働く公僕だ。世の中に卑しい業というものはない。ただし、心の卑しい人はいるものだが。, 誰かが成功をおさめることが出来たということは、他の人にも同じ事ができるという証明である。, もし相手を自分の意見に賛成させたければ、まず諸君が彼の味方だとわからせることだ。これこそ、人の心をとらえる一滴の蜂蜜であり、相手の理性に訴える最善の方法である。一旦これが獲得できると、こちらの意見を認めさせるのに、大して手間はかからない。, 私は一つの痛切な願いを持っている。それは、私がこの世に住んだがゆえに、少しだけ世の中が良くなったということが認められるまでは、生きていたいということだ。, 一部の人たちを常に、そしてすべての人たちを一時だますことはできるが、すべての人たちを常にだますことはできない。, 私の祖父がどんな人だったか知らないが、彼の孫がどんな人になるかにはとても感心がある。. リンカーンは、第16代アメリカ合衆国大統領です。多大な功績から、偉大な大統領の1人として知られています。素晴らしい演説も、その名文は、今でも子供たちの暗唱教材に用いられることがあるそうです。 シェイクスピア(英語の名言) / ゲーテ(英語の名言) / 武者小路実篤 / 相田みつを / 瀬戸内寂聴 / 村上春樹 / 太宰治 / オスカー・ワイルド(英語の名言) / マーク・トウェイン(英語の名言) / ヘミングウェイ(英語の名言) / トルストイ(英語の名言) / 夏目漱石 / 芥川龍之介 / バーナード・ショー(英語の名言) / ドストエフスキー(英語の名言) / サン=テグジュペリ(英語の名言) / レイモンド・チャンドラー(英語の名言) / カフカ(英語の名言) / アガサ・クリスティ(英語の名言) / ヴィクトル・ユーゴー(英語の名言) / アルベール・カミュ(英語の名言) / スコット・フィッツジェラルド(英語の名言) / 魯迅 / マヤ・アンジェロウ(英語の名言) / ダンテ(英語の名言) / 吉川英治 / ヘルマン・ヘッセ(英語の名言) / チャールズ・ディケンズ(英語の名言) / ルイス・キャロル(英語の名言) / ジョージ・エリオット(英語の名言), 【芸術・ファッション・芸能・音楽家】 リンカーン大統領暗殺事件(リンカーンだいとうりょうあんさつじけん)は、南北戦争の最末期、1865年4月14日金曜日(聖金曜日)午後10時頃にワシントンD.C.で起きた暗殺事件で、最初のアメリカ大統領暗殺だった。, エイブラハム・リンカーン大統領はフォード劇場で妻メアリー・トッド・リンカーンらと『われらのアメリカのいとこ(英語版)』の観劇中にジョン・ウィルクス・ブースに撃たれた。リンカーンは翌朝、1865年4月15日土曜日の午前7時22分にウィリアム・ピーターソン(William Petersen)宅で死亡した。, リンカーンを殺害したブースは、俳優でアメリカ連合国のシンパであった。ブースは同志であったルイス・パウエル(Lewis Powell)に国務省長官ウィリアム・スワード暗殺も命じていた。ブースの狙いはリンカーン、スワード、副大統領アンドリュー・ジョンソンを暗殺することでワシントンを混乱させ、合衆国政府(北部連邦)の転覆を起こすことにあった。ブースはリンカーン暗殺には成功したが、政府に揺さぶりをかけるという彼の思惑は外れた。スワードは負傷はしたが命をとりとめ、ジョンソン暗殺を命じられていたジョージ・アツェロット(英語版)は暗殺に踏み切る度胸がなく、何もしないままにワシントンを離れた。, ブースはもともとリンカーンを誘拐して南部へ連れ去り、合衆国政府に対して捕虜収容所に抑留されている南軍捕虜の解放を強いるつもりであった[1]。ブースはこの計画のための同志を集めていった。こうして集まったのがサミュエル・アーノルド(Samuel Arnold)、ジョージ・アツェロット、デイヴィッド・ヘロルド(David Herold)、マイケル・オロフレン(Michael O'Laughlen)、ルイス・パウエル(Lewis Powell)、ジョン・サラット(John Surratt)らであった。そのころ、サラットの母メアリー・サラット(Mary Surratt)はメリーランド州サラッツヴィル(Surrattsville)にあった下宿屋を引き払ってワシントンに居を移していた。ワシントンのサラットの家をブースが足しげく訪れたことから、メアリー・サラットがブースのアジトを提供するためにワシントンに移ったと糾弾されることになる。, ブースは1865年3月4日におこなわれたリンカーン大統領の二期目の就任式にゲストとして参加していた。ブースが参加できたのは恋人のルーシー・ヘイルのおかげであった(ルーシーの父ジョン・パーカー・ヘイルは後に駐スペイン公使となった人物であった)。ブースは後に「あの就任式の日なら、リンカーンを殺すことができた」と語っていた[2]。, 1865年3月17日、ブースは仲間たちに、リンカーンがキャンベル陸軍病院での劇「水は深きを流れる」を鑑賞する予定であることを告げた。ブースは仲間とともにワシントンのはずれにある食堂で待機し、病院から戻るリンカーンを待ち伏せして誘拐しようとした。しかし、リンカーンは病院には向かわず、ナショナルホテルでの第140インディアナ連隊が獲得した南軍の軍旗を知事に送呈する儀式に参加して演説を行っていた。皮肉なことにそこはブースの泊まっていたホテルであった[3]。, 1865年4月10日、南軍のロバート・E・リー将軍が率いる北バージニア軍がアポマトックス・コートハウスの戦いで北軍に降伏し、その時点でこの戦争は事実上終結に向かい始めていた。最早リンカーン大統領を誘拐して南軍の捕虜を解放させたところで戦争継続も南部を救う事も事実上不可能な状況だったが、翌日リンカーンはホワイトハウスの前で黒人の参政権を認めたいと演説し、それを聴いたブースの胸に殺意が宿った。, ブースがリンカーン誘拐計画をあきらめたころ、南部連合はすでに崩壊寸前だった。東部の主力であった北バージニア軍はすでに降伏しており、西部はジョセフ・ジョンストン将軍率いるテネシー軍がまだ存在していたもののウィリアム・シャーマン将軍率いる北軍に猛追されていた。それ以外の戦線でも南軍の敗色は濃く、南部人の多くが希望を失っていたが、ブースだけはまだまだ南部はやれると信じて疑わず、その決意を日記に記している[4][5]。, ブースはリンカーンと副大統領のジョンソン、国務長官スワード暗殺に成功すれば合衆国政府は混乱し、再び南部連邦が主導権を握り返せると考えていたのである。アツェロットは「自分は暗殺などしたくない、誘拐というから仲間に入ったのだ」と言い出したが、ブースはアツェロットに「いまさら遅い」といった。, しかし、ブースもアツェロットでは暗殺をやり遂げられないと見たのか、フォード劇場に向かう途上、新副大統領ジョンソンのワシントンでの宿舎であるカークウッド・ハウス前でアツェロットを下ろし、メモを書いて副大統領に渡すよう命じた。メモには「お邪魔するつもりはありません。ご在宅でしょうか?ブース」[6]と書かれていた。このメモの意味をめぐってはさまざまな憶測がされたが[7]、もっとも確度が高いとされる説は「ブースがアツェロットには暗殺は無理と見て、後からジョンソンも共犯であったかのようにみえる工作を行った」というものである[8]。, なお、メモはブース自らフロントに託した(ジョンソンが不在だったため)という説もある。ブースは続いてパウエルにスワード殺害に向かわせ、ヘロルドにはスワードの案内を命じて待機させた[9]。, リンカーンと妻のメアリーはローラ・キーン(英語版)主演の『われらのアメリカのいとこ』(Our American Cousin)を見ることにしていた[10]。リンカーン夫妻は南北戦争による公的なストレスと1862年に三男ウィリアム(ウィリー・リンカーン)が死んだことによる私的なストレスを抱えていた。劇を見て精神的にリラックスしたい思いがあったリンカーン夫妻は、一緒に観劇しようと何人もの人に声をかけていたが、ことごとく断られ[11]、ヘンリー・ラスボーン(Henry Rathbone)少佐と婚約者のクララ・ハリス(Clara Harris)のみがこの誘いを受けた[12]。, 大統領夫妻は開演後にフォード劇場に到着、ボックス席に入り、大統領が左側のロッキングチェアに座った。, リンカーンが開演に間に合わなかったのは、ホワイトハウスでミズーリ州選出議員ジョン・B・ヘンダーソン(John B. Henderson)の陳情を受けていたためであった。彼は大統領に、南北戦争においてスパイの疑いで死刑を宣告されていたジョージ・ヴォーン(George S.E. Vaughn)の恩赦を求め、それに成功した。これがリンカーンの大統領としての最後の職務になった[13]。, 午後9時ごろ、ブースはフォード劇場の裏口に到着し、この劇場で働いていた顔見知りのエドマン・スパングラー(Edmund Spangler)に自分の馬を預けた。スパングラーは、馬の手綱をもっておく仕事を劇場でピーナッツを売っていたことから「ピーナッツ」と呼ばれていたジョセフ・バロウズにゆだねた。俳優としてフォード劇場を知り尽くしていたブースはリンカーンのいるボックス席に入り込み、ドアにつっかえをした[14]。, メアリー夫人はリンカーンが自分の手を握っていたので「ハリス嬢が見たらどう思うかしら」と夫をたしなめた。大統領は「別になんとも思わないさ」[15]と答えたが、これが彼の最後の言葉になった。, ブースは大統領の背後に近づいて、後頭部めがけてデリンジャーピストルで銃弾を発射した。撃たれた大統領はイスに座ったまま、前のめりになった。これに気づいたラスボーンはすぐさまブースに飛びかかったが、ブースは手にもっていたナイフを振り上げてラスボーンめがけて切りつけた。一瞬ひるんだラスボーンは舞台にとびおりようとするブースを取り押さえようとした。ブースは手すりを超えて舞台に飛び降りたが、かかとについた拍車が飾りの旗にひっかかって足をとられた。不安定な姿勢ながらなんとか舞台に飛び降りたブースはナイフをかかげ、観客に向かって「シク・センペル・ティラニス(ラテン語:暴君はかくのごとし)」と叫んだ[16]。これはヴァージニア州のモットーであった(このとき、彼が「南部は復讐を果たした!」とも叫んだという証言もある[17])。ブースはすぐにきびすを返して舞台の裏手に出て、劇場の裏口から待たせてあった馬にまたがった。観客の中でこれをすぐに追いかけたものもいたが、ブースは逃げさった後だった。ブースはヘロルドと合流すべく海軍基地の橋へ向かった。, 逃走時、ブースはある時点で足の骨を折っている。一説によれば馬から転落して折ったのだが、新聞にそう書かれるとみっともないと思ったブースが「舞台に飛び降りたときに折った」としたといわれる。骨折というアクシデントはあったものの、ブースは劇場内でリンカーンを暗殺するという際どい計画をやりきった[18]。, U.S.ニュースアンドワールドリポート紙は「もし、リンカーンが同じような傷を受けたのが現代であれば、彼が(障害が残るにせよ)命をとりとめたことは間違いない」と報じている[19]。, ブースはルイス・パウエルに国務長官のウィリアム・スワード殺害を命じていた。このとき、スワードは一週間ほど前に起きた馬車での事故によって床に臥していた。スワード邸はホワイトハウスにほどちかいワシントンのラファイエット・パーク(Lafayette Park)にあった。, パウエルとヘロルドはブースの指示通りスワード邸に赴いた。ブースが、パウエルは度胸と腕力はあるが、ワシントンの地理にうとく、ヘロルドは地理には精通しているが、人を殺す度胸がないと見たため、二人をペアにして行動させたのである。パウエルは武器として南北戦争のころ人気があった大型銃、1858年式のホイットニー回転式拳銃と大きなボウイナイフを所持していた。, ヘロルドが逃走のための馬を用意して、スワード邸外に待機すると、パウエルは10時すぎにスワード邸の扉をたたいた。使用人のウィリアム・ベルが応対した。パウエルはブースの指示通り、ヴェルディ医師の指示で国務長官の薬を持参したという口実を述べた。パウエルは「国務長官に直接口頭で説明するよう指示されているので面会したい」といって譲らなかったため、ついにベルは邸内に招きいれた。パウエルは邸内に入ると三階の寝室をめざした[6][20][21]。, 階段を上りきったところで、スワードの息子で秘書をしていたフレデリック・ウィリアム・スワードが出てきてパウエルをとどめ、押し問答になった。パウエルはさきほどの口上を繰り返したが、フレデリックはこれに疑いを抱き、父はもう寝てしまったといって追い返そうとした。, このやりとりが聞こえたため、スワードの娘で父の看病をしていたファニー・スワードは面会者かと思ってドアを開け、フレデリックに「お父様は起きていらっしゃるわ」と声をかけて室内に戻った。パウエルはこれによって国務長官がどの部屋にいるかがわかった。パウエルはいったんあきらめて帰るふりをして、突然階段を上がり、同時にリボルバーを引き抜いてフレデリックの頭に突きつけた。パウエルは間髪いれず引き金を引いたが、銃は不発だった。パウエルは銃が不発と見るや、銃床で何度もフレデリックの頭を強打したのでフレデリックは血まみれになって倒れた。, 娘のファニーはこの乱闘の音を聞いて、何事かと思い、再びドアを開けた。すると兄が昏倒し、パウエルが部屋に突き進んでくるのが見えた。パウエルはあっけにとられるファニーを尻目に室内に乱入し、ベッドで寝ていたスワードに向かって振り上げたナイフを下ろした。さきほどフレデリックにたたきつけた衝撃で銃が壊れてしまったのである。しかし、ナイフを握る手にあまりに力が入っていたため、手元が狂って二度狙いをはずしたが、三度目にスワードの頬を大きく切り裂いた[22]。再びパウエルがナイフをふりあげたとき、首のネックレス以外、スワードの頚動脈を守るものは何もなかった[23]。そのとき、間一髪飛び込んできた看護兵のジョージ・ロビンソン軍曹とスワードの息子のオーガスタス・スワードがパウエルに飛びかかり、スワードへの致命傷を食い止めた。オーガスタスは隣の部屋で寝ていたが、ファニーの叫び声を聞いて部屋に飛び込んできたのだ。ファニーは窓から外に向かっても叫んでいたので、これを聞いたヘロルドは長居は危険とみて、パウエルを見捨てて馬でその場を離れた[24]。, いまや、パウエルはオーガスタス、ロビンソン軍曹、ファニーの三人と組み合う形になっていた。ベッドのスワードの顔からは激しく流血していたので、パウエルはこれでよいと思い、階段を下りて逃走した[25]。理由は不明だが、屋敷の外に走り出たパウエルは「おれはいかれてる、おれはいかれてる」と叫んでいたという。パウエルはヘロルドの残した馬のたづなをとって逃げていった。, ブースはジョージ・アツェロットに副大統領アンドリュー・ジョンソン暗殺を命じていた。ジョンソンはワシントンのカークウッド・ホテルに滞在していた。ブースの予定ではアツェロットが午後10時15分に副大統領の部屋に押し入って銃で暗殺する手はずになっていた[26]。, 1865年4月14日、アツェロットはカークウッド・ホテル126号室に投宿した。しかしアツェロットには暗殺を実行する気がなく、近くのバーで酒を飲みながら時間をつぶし、やがてワシントンの街に出て行った[27]。暗殺事件の翌日・4月15日土曜日に、ジョンソンの警護のため、憲兵隊がカークウッド・ハウスを捜索した際、既に逃亡していたアツェロットの部屋から大量の武器やメモが押収され、これが一味の陰謀を裏付ける最初の重要な証拠となった。, 陸軍長官指示のもと、合衆国史上最大の捜索が開始された中、ブースはヘロルドと落ち合うことに成功したが[28]、足をくじいていた。サラッツビルにおいていた逃走用の道具を手に入れた二人は、南軍の協力者のネットワークを利用しながら、深南部を目指す逃走の途につき、南軍の工作員であったサミュエル・マッド医師の自宅を目指した。医師はブースの足が折れていたため、簡単な治療を行い[29]、サミュエル・コックス[要曖昧さ回避]の元へ二人を向かわせた[30]。さらにコックスの手引きで二人はトーマス・ジョーンズに引き合わされた。ジョーンズは二人を森の中にかくまい、追っ手の目を盗んでポトマック川を渡り、南軍支持者の多いバージニア州に逃げ切るようボートと羅針盤を与えた[31]。, 5日後、ようやくポトマック川を渡った二人は4月24日にボウリンググリーン近くのリチャード・ギャレットなる人物の農園にたどりついた。二人は自分たちが南軍の兵士であると言ったため、ギャレットはこれを信じて二人をもてなし、家に泊めた。しかし、翌日になってギャレットの家族は二人の言葉に疑いを抱き、たばこ倉庫で寝てほしいと頼んだ。二人が倉庫へ入ると、馬などの盗難を恐れたギャレットの家族によって外からひそかに鍵がかけられた。そこへ、ポトマック川を捜索中に偶然職質を行った2人組から、犯人らの情報を得、ルーサー・ベーカー中佐、エドワード・ドハティー中尉、エヴァートン・コンガー(英語版)大佐らに率いられた捜索隊の兵士たちがやってきてギャレットたちを尋問し、ブースらの居場所を聞き出すと倉庫を包囲した。, 4月25日夜半、26名の騎兵隊によってブースとヘロルドの立てこもる倉庫が包囲された。騎兵隊が投降を勧告するとヘロルドは投降したが、ブースはこれを拒否した[32]。コンガーの指示によって小屋のまわりに薪がつまれ、火が放たれた[33]。その後、ボストン・コーベットという名前の軍曹が倉庫の中で火に照らされているブースの姿をとらえ、背後から銃撃した。銃弾はブースの首を貫通し、致命傷を与えた。偶然にもブースがリンカーンに与えた傷に非常に近かった[34]。倒れたブースを兵士たちが火の中から引きずり出し、ギャレット家のポーチへ横たえた。兵士の一人がブースの首に包帯を巻こうとしたが、ブースは断り、かすれた声で「母に私は国のために死んだと伝えてくれ」と言い残した。脊椎を打ち抜かれていたため、ブースの首から下はまったく動かなかった。ブースは呼吸も困難な苦痛に苦しみながら、動かない手を見て「役立たず、役立たず」と言った。これが最後の言葉になる。4月26日早朝、ブースは息を引き取った[6]。, ブースは死んだが、共犯者として捕らえられた8名の裁判が軍法会議の形で行われた。この裁判が一般の裁判でなく軍法会議の形をとることに対して非難の声が上がった。審理は7週間にわたり、366名の証人が喚問された。判決は7月5日に下り、8名全員が有罪となった。メアリー・サラット、ルイス・パウエル、デイヴィッド・ヘロルド、ジョージ・アツェロットが絞首刑、サミュエル・マッド、サミュエル・アーノルド、マイケル・オロフレンは終身刑、エドマン・スパングラーは懲役6年となった[35]。, ブースの日記については、裁判でスタントン陸軍長官は発見されていないとしていたが、のちに発見されたと裁判に提出した。ただし日記は暗殺事件の期間24ページが破られていた。, サラット、パウエル、ヘロルド、アツェロットの絞首刑は7月7日に執行された[36]。メアリー・サラットはアメリカ合衆国政府によって処刑された最初の女性となった[37]。オロフレンは1867年に黄熱病で獄死。マッド、アーノルド、スパングラーは1869年にジョンソン大統領による恩赦を受けた[38]。, エイブラハム・リンカーンは暗殺された最初の大統領になり、アメリカの歴史に大きな影響を与えた。国中がリンカーンの死を悼み、全国でブースへの支持を表明したものには激しい攻撃が行われた[39]。リンカーンの死の二日後の復活祭には全国の教会で追悼説教が行われた[40]。1865年4月19日に行われたリンカーンの葬儀には数万人の人が押しかけ、彼の遺体が列車にのってニューヨークからイリノイ州スプリングフィールドまでの2500kmの葬送となり、道中では数十万人がこれを悼んだ。, ユリシーズ・グラントは「もっとも偉大な人物である」[41]とリンカーンを激賞し、南部出身のエリザベス・ブレアも「南部のシンパの者たちは自分たちにとって二度と見つからない友人を失ったことを知っている」[42]と述べた。リンカーン記念館は1922年にオープンした。, リンカーンの死を受けて大統領職を継いだアンドリュー・ジョンソンは史上もっとも不人気な大統領の一人に数えられている[43]。彼は1868年に下院の弾劾決議を受けたが、上院での投票で一票差でからくも失職を逃れた[44]。, スワードは傷がいえると職務に戻った。後に彼は国務長官としてロシア帝国からアラスカを買い取った。これは当時「スワードの愚行」と批判された[45]。, 結局リンカーンが暗殺された事で北部が崩壊するような事はなく、またこの時点では南部の方もこれを幸いと戦争を継続する意思がなかったため南北戦争はそのまま終結する事となった。南部の大統領であるジェファーソン・デイヴィスは最後までゲリラ戦を主張して降伏を認めようとしなかったが1865年4月26日にはテネシー軍指揮官であるジョンストン将軍が大統領の命令を無視してシャーマン将軍に降伏、それ以後も雪崩的に南軍部隊が北軍に降伏して行ったため南部連合は実質的に崩壊した。デイヴィス大統領も5月10日には拘束され、5月26日にはこの時点でまだ存在していた南軍部隊で最大規模のミシシッピ圏方面軍のエドマンド・カービー・スミス大将がエドワード・キャンビー将軍率いる北軍に降伏しており、南軍も事実上消滅した。統制された部隊として最後に降伏したのは6月23日に降伏したスタンド・ワティー准将率いる部隊が最後だとされているが、南北戦争が実質的に終結したのは北バージニア軍が降伏した4月9日だとされている(正式発効は4月10日だった)。, だからと言って影響がなかったかと言えばそうではなく、南部の合衆国復帰に関しては穏健派だったリンカーン大統領が暗殺されてしまった事で急進派共和党員が議会での実権を握り、南部に対して過酷なレコンストラクションを強いる事となった。しかもこの政策が過酷過ぎたため逆に南部におけるリディーマーやクー・クラックス・クランの台頭を招き、南部を合衆国に復帰させるどころか逆に溝を広げる結果となった。また、南部の黒人奴隷達は奴隷身分からこそ解放されたものの数々の隔離政策によって差別される事となった。ブースはリンカーンが共和制を廃止し、絶対君主制をもたらす可能性を危惧しており自分の事をブルータスになぞらえていたとされるが、皮肉な事にブルータスと同じようにその暗殺は問題を解決するどころか無駄に複雑にし、南部の民衆を苦しめただけであった。[独自研究? その場合、ひどい苦しみを伴うことがある。 記事内容の実施は、ご自身の責任のもと、安全性・有用性を考慮の上、ご利用ください。, 公務員総研が主催の、日本で働く「公務員」をテーマにした「川柳」を募集し、世に発信する企画です。, アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第16回目は、第16代大統領を務めたエイブラハム・リンカーンです。エイブラハム・リンカーンは現代でも最も偉大で、最も尊敬を集める大統領とされています。 ただその行動と私に対して報告してくれた内容に違いがあ... パズドラについて質問です。炭治郎2体目と、無惨2体目と、煉獄1体目どれがいいですかね?やっぱり持ってるキャラによりますか?, パズドラで、炭治郎テンプレを作りたいんですけど、何をどう組めばいいのか分からないので、誰か組んでいただきです。よろしくお願いします。, パズドラ初心者です。 カミーユ・シャリエールは堅実な業界から世界的インスタグラマーに!高額オファーを蹴った男前すぎる理由とは?, 羽鳥慎一の年収は?再婚相手・渡辺千穂はあのドラマの脚本家!離婚した元妻と子供の現在は?, アレクサンドル・ウィロームのインスタに山下智久が登場!「THE HEAD」ではヨハン・ベルク役を熱演!主な出演作は?. おそらく日本で最も知られているアメリカ歴代大統領のひとりであるエイブラハム・リンカーンは、1861年から1865年4月15日に暗殺されるまで第16代大統領を務めました。アメリカが建国以降に直面した最も難しい問題とされた奴隷制度や南北戦争の最中に大統領を務めたエイブラハム・リンカーンは、アメリカでも最も偉大な大統領として広く知られています。, 今回はアメリカ第16代大統領を務めたエイブラハム・リンカーンが具体的にどのような人物で、どのような思考を持って様々な功績をあげたのか詳しく解説します。, エイブラハム・リンカーンはケンタッキー州で生まれ、7歳のときにインディアナ州へ、そして21歳のときにイリノイ州に引越しをしました。幼少期から21歳になるまでは家計を支えるために様々な仕事をして、稼いだお金を父親に渡すような生活を続けていました。エイブラハム・リンカーンは青年期をイリノイ州で過ごしていたことから、現在でもイリノイ州はエイブラハム・リンカーンの州として広く知られています。, エイブラハム・リンカーンは無学で貧しい両親の元に生まれたため、まともな教育を受けることなく育ちました。唯一受けた教育は、巡回教師と呼ばれる人から教わったこと程度で、基礎教育1年分だったとされています。しかし、独学で測量士や法律学を勉強して後に敏腕弁護士として活躍するようにまでなります。, 青年期までをこのような環境で過ごしたことからエイブラハム・リンカーンは質素で素朴、健全で誠実、そしてユーモアのある人物になったとされています。この性格は後に大統領になってから大きな意味を持つようになります。, 1846年に国政に参加してからは、ジェームズ・ポーク大統領の政策に反対し、カリフォルニアを始めとする広大な西部の土地を手に入れることに繋がった米墨戦争にも反対しました。皮肉にもジェームズ・ポークとエイブラハム・リンカーンは歴代大統領のなかでも最も偉大な人物として知られる二人です。, 米墨戦争で活躍したザカリー・テイラーが大統領を継いだと同時に、エイブラハム・リンカーンはウィリアム・H・ハーンドンと弁護士の共同事業を始め、弁護士活動に専念するようになります。北海道全域に該当するほどの広大なエリアを巡回しながら裁判をこなしていくうちに、多くの人から誠実で真摯な態度の人物と評判を得るようになりました。, この頃から「Honest Abe.(正直者のエイブラハム)」と呼ばれるようになります。弁護士として精力的に活動した時代に築いた人脈が後の政治家としての活動を支えるようになります。そのひとりがデイビッド・デイビスで、エイブラハム・リンカーンが大統領就任後に最高裁判所判事に指名した人物です。エイブラハム・リンカーンが大衆から支持された背景には地道な弁護士活動があったと言えます。, 大統領に就任してからは波乱の状況下において「連邦を守ること」を主張し、奴隷制度を巡る南部諸州の合衆国離脱や南北戦争の指揮に尽力しました。エイブラハム・リンカーンはある手紙のなかで「連邦を守るためであれば奴隷を全面解放するし、解放しない方が連邦を守れるのであれそうする」と述べています。, エイブラハム・リンカーンは奴隷解放に貢献した人物ですが、その背景には明確な「連邦を守る、すなわちアメリカ合衆国を守る」という強い意志があったことはあまり知られていません。エイブラハム・リンカーンは誰よりも誠実にアメリカのことを真剣に考えていた大統領とされていることから、現代でも最も偉大な大統領として知られているのです。, 1809年、エイブラハム・リンカーンはケンタッキー州で生まれます。家族はエイブラハム・リンカーンが生まれた時にはその地域では裕福に分類されるほどに農業や土地で成功していたものの、土地の権利書が偽物だったとされ、訴訟の結果すべてを失うことになりました。, 一家は新しい土地を求めてインディアナ州に移住しますが、そこでエイブラハム・リンカーンは土地問題や裁判で苦しんだ父親を見て、測量士や弁護士になるための勉学が必要と考えるようになり独学で勉強を始めました。この時に始めた読書の習慣は生涯にわたって続くことになり、戦争時の戦術、演説の内容、そして南北戦争の大義名分を生み出すことなどに繋がります。, 1830年、エイブラハム・リンカーンは自由州だったイリノイ州に引越しをして家族から独立します。身長が193センチほどあったエイブラハム・リンカーンは屈強でありながら優しく、誠実な人柄だったとされています。この頃に生涯の親友となるジョシュア・フライ・スピードと出会い、一緒に生活を始めます。, ジョシュア・フライ・スピードは後にエイブラハム・リンカーンが暗殺されたことを知るとエイブラハム・リンカーンを讃える記念事業を立ち上げ、政府への資金援助や関係者に伝記の執筆を依頼した人物として知られています。なかでもワシントンD.C.にあるリンカーン記念堂は大きな功績のひとつでしょう。ジョシュア・フライ・スピードの貢献によってエイブラハム・リンカーンの功績が後世に伝えられています。, 1832年、エイブラハム・リンカーンが23歳のときに、イリノイ州とインディアン連合との間でブラック・ホーク戦争が起こり、イリノイ州軍として従軍します。目立った活躍こそなかったものの、エイブラハム・リンカーンの祖父はインディアンに殺されていたため、個人的なインディアンに対する排除論は根深いものがありました。, 事実、大統領就任後もインディアン徹底排除政策を執り、1862年には38名のインディアンを一斉に絞首刑にしました。この刑の執行はいまだにアメリカ史上最大の処刑として知られていますが、エイブラハム・リンカーンが一貫して黙認し続けたことはあまり知られていません。, 23歳で周囲の奨めもあってイリノイ州議会議員に立候補したエイブラハム・リンカーンですが、落選し、当時住んでいた町(ニューセイラム)の郵便局長、土地の測量士、弁護士で生計を立てていました。そして、24歳のときに2度目のイリノイ州議会議員に立候補して当選を果たします。, 弁護士として活動する一方で、下院議員として奴隷制度維持論にも奴隷制度廃止論にも反対します。エイブラハム・リンカーンはこの時点で、奴隷制度維持論や奴隷制度廃止論そのものが争いごとの火種になることを見抜いていたとされています。エイブラハム・リンカーンは奴隷制度へ賛成するか反対するかよりも、奴隷制度の議論が拡大すること自体を懸念していました。, 1846年にはホイッグ党から下院議員に選出され国政に参加するようになります。エイブラハム・リンカーンはホイッグ党の創設者でもあったヘンリー・クレイを賞賛し、自らヘンリー・クレイの弟子と名乗るようになります。ヘンリー・クレイは大統領にこそなれませんでしたが「最も大統領に近かった人物」として有名で、エイブラハム・リンカーンの思想に大きな影響を与えた人物と言われています。, 1850年に入ると、奴隷制度を巡る議論が活発化するようになりました。なかでも、1854年に成立したカンザス・ネブラスカ法は実質的に奴隷制度を拡大することに繋がったため、奴隷制度の存在そのものを懸念していたエイブラハム・リンカーンは、ホイッグ党から上院議員選挙に選出されることになりました。, しかし、エイブラハム・リンカーンは支持者たちに別の議員に投票するように説得し、内部分裂しつつあったホイッグ党、民主党、自由土地党などのメンバーを集めて新しい共和党を作りました。1858年には共和党から上院議員に選出された際の共和党州大会において、奴隷制度問題が連邦を解体する危険があることを訴え「どちらか一方で決着することになる」と危機感を持たせました。, 1860年の大統領選では民主党候補のスティーブン・ダグラスと徹底抗戦になります。両者とも雄弁だったため、後に「リンカーン・ダグラス論争」と呼ばれた大統領選は、現在でもアメリカ史上最も有名な論争と言われています。, 大統領選のときには両者ともあらゆることに対照的な立場をとっていました。エイブラハム・リンカーンは奴隷制度問題が連邦を解体する危険性があることと、スティーブン・ダグラスがすべての人は生まれながらに平等というアメリカ建国時の価値をゆがめようとしていると非難しました。, 一方で、スティーブン・ダグラスはエイブラハム・リンカーンが奴隷制度廃止論者に加担していおり、奴隷制度を各州民が決める権利を阻害していると非難しました。さらに、1857年にアメリカ合衆国最高裁判所によって「アフリカ人は奴隷に関係なくアメリカ合衆国の市民にはなれず、連邦の領土内では奴隷制度を禁止する権利はない」という判決が下った「ドレッド・スコット対サンフォード事件」をないがしろにしていると批判しました。, 選挙期間中にニューヨークを訪れて演説を行ったエイブラハム・リンカーンですが、市民からはみすぼらしい格好をした人物と冷たい目を向けられます。しかし、演説が始まると多くの人が演説の内容や強い意志に魅了されていったとされています。演説中にライバルや他の議員の名前を一切出すことなく話す姿は、ニューヨークの人を惹き付けました。エイブラハム・リンカーンのこのような姿は北部の票を次々に獲得していきました。, 1860年11月、エイブラハム・リンカーンはスティーブン・ダグラスを破って共和党初の大統領として勝利します。当時、15州あった南部の奴隷州のうち10州からは1票も入らず、南部の996郡のうち2郡のみでしか勝利できなかったことは北部と南部の対立構造を浮き彫りにし、南部州からの不支持を一層明白なものにしました。そして、エイブラハム・リンカーンの勝利は南部州が連邦から脱退することを決定付けます。, エイブラハム・リンカーンが大統領選に勝利して、大統領職に就くまでの4ヶ月の間に南部諸州は連邦からの脱退を示唆します。これに対してエイブラハム・リンカーンは妥協案として、すでに奴隷州として存在している州の奴隷制度を保護するコーウィン修正条項の批准を促すことに着手し、各州知事へ直筆の手紙を書いて脱退を阻止しようとしていました。, しかし、1860年12月20日にサウスカロライナ州が連邦からの脱退を決定し、翌年の2月1日までにフロリダ州、ミシシッピ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州が次々に脱退していきました。さらに、これらの州で「アメリカ連合国」を設立し、主権国家になることが宣言されます。, わずかに任期を残したジェームズ・ブキャナン大統領と、次期大統領のエイブラハム・リンカーンは、脱退は違法としアメリカ連合国を認めないとしましたが、新しく設立されたアメリカ連合国では、大統領としてジェファーソン・デイヴィスが選出され、正式な国家が発足しました。, バージニア州のリッチモンドにアメリカ連合国の首都機能を置き、ワシントンD.C.同様にアメリカ連合国の議会議事堂やホワイトハウスも用意されました。この頃、長く過ごしたイリノイ州のスプリングフィールドからワシントンD.C.に向かおうとしていたエイブラハム・リンカーンは、暗殺の計画があることを知らされており、変装して警護を受けながらホワイトハウスに辿り着いたとされています。, 1861年、建設途中だったワシントンD.C.のアメリカ合衆国議会議事堂の前で就任演説を行ったエイブラハム・リンカーンは、離脱した南部諸州に向けて「奴隷制度に関与して南部諸州の人たちの生活を脅かすようなことはないし、法律的な権限もない。そうしたいとも思わない」と発言し、連邦をひとつにまとめることを主張しました。, さらに「アメリカ国民は敵同士ではなく友同士でなくてはならず、いつだって憲法上の権利を使って政府を解体することも可能」と友好的な道を示しました。エイブラハム・リンカーンを始めとする共和党員は連邦の解体を防ごうとした一方で、アメリカ連合国は一切の妥協なく反乱を続ける姿勢を崩しませんでした。, アメリカ連合国すなわち南部連合は南部各地にあった要塞を占拠し始めます。それらは連邦政府の管轄ではなくアメリカ連合国の管轄になるとみなし、次々に範囲を広げていきました。そして、最後に残ったのが「サムター要塞」でした。, サムター要塞の指揮官(北軍)は南部連合の圧力を受けていたためエイブラハム・リンカーンに食料補給と兵士2万人の派遣を要望しました。これに対してエイブラハム・リンカーンは食料のみの補充を命じて、サムター要塞に食料が無事に届けられれば、兵士や武器を運び込むことはないと南部連合に約束しました。, この提案は南部連合にとって難しい選択になります。食料補給を阻害すれば北軍から攻撃される可能性があり、反対に阻害しなければいつまでもサムター要塞は北軍のままとなるためでした。, 1861年4月12日、南部連合はサムター要塞を36時間にわたって砲撃して補給船の侵入を阻害し、サムター要塞を制圧しました。この結果は、エイブラハム・リンカーンを始め北軍からすれば南部を攻撃する大義名分を手に入れたことになり、連邦政府を守るためには連邦政府の戦争権限を行使する道しか残されていないことを意味していました。, エイブラハム・リンカーンは1861年4月15日に、法による手続きでは抑制できない反乱が起きているとして7万5千人の民兵を招集し、南部の海岸を封鎖、海軍1万8千人、陸軍2万2千人を増兵しました。さらに、議会の承認を得る前に5隻の海軍船の購入を決断するなどして、後に「大統領の戦争」と呼ばれるほどの規則を超越した決定を下していきました。, 南北戦争が始まってすぐにエイブラハム・リンカーンは人身保護令状の発行を停止しました。人身保護令状とは行政権によって個人を不当に拘束することを防ぐのを目的にした個人を守るための制度ですが、エイブラハム・リンカーンは大統領の権利を使ってそれを停止し、反乱に加勢する者を容赦なく拘束できる環境を作りました。人身保護令状を停止した大統領は歴史上エイブラハム・リンカーンだけです。, この時のエイブラハム・リンカーンの思考は、大統領は法を忠実に執行するための義務があり、それを乱そうとする者は人身保護令状を停止してでも拘束し、なおかつ大統領は軍隊の最高司令官として軍事力も含めて反乱者(南部連合)を制圧できるというものでした。ちなみに、人身保護令状を停止した問題はアメリカ人の自由の権利を揺るがす問題として現在でも議論の対象にされています。, 北部は南部と比較して人口や工業化が進んでおり、強力な海軍も持ち合わせていました。それに対して南部は、海軍を持たず北軍によって閉鎖されてしまった海上からの侵攻は不可能だったため、地元の強みを生かした地上戦で対抗することに専念しました。, その際に活躍したのがロバート・リー、サミュエル・クーパー、ジョセフ・ジョンストンなどの将校たちです。なかでも、総司令官を務めたロバート・E・リーは南部軍の英雄として、現在も南部諸州で尊敬されている人物です。, 南北戦争は奴隷制度を巡ることが起点でもありますが、双方で目的が異なったことも事実です。北部は「連邦政府の再統合とアメリカ連合国の解体」で、南部は「アメリカ連合国の維持」でした。エイブラハム・リンカーンはこの行為を「戦争」と位置づけるのではなく「反乱」と見なして、憲法に沿った形で宣戦布告をしています。, 南北戦争が始まってからエイブラハム・リンカーンが執った数々の行動は、同じ共和党内からも軍事的な独裁と非難されることが多かったものの、連邦を守るという強い意志と弁護士としての緻密な論理で周囲からも支持されるようになります。, なかでも、通常の裁判規則の範囲外で裁判を行える「軍法裁判」を用いたことはジョージ・ワシントン以降初で、これにより反乱者の拘束を合法的に容易にしました。エイブラハム・リンカーンの読書癖によって導き出された案でした。, 南北戦争という非常事態に合法的な方法で反乱を静める対策を執ったエイブラハム・リンカーンですが、特筆すべきこととして、南北戦争期間中に実施された中間選挙については一切の妨害や干渉はしなかったことがあります。大統領就任演説の際に「いつだって憲法上の権利を使って政府を解体することも可能」と言ったことに忠実だったのです。, 南北戦争におけるエイブラハム・リンカーンの功績は、南部連合を制圧したことではなく、憲法に忠実でありながら連邦を守ったことと言えます。, 1863年1月1日、エイブラハム・リンカーンは奴隷解放宣言を発布しました。その内容は「連邦政府から脱退した州のなかで1863年1月1日までに戻ってきていない州の奴隷は永久に解放される」というものでした。これに先だって予備版の奴隷解放宣言が発行されていましたが、それは奴隷を保持し続けてもよいと解釈されるような内容だったとされています。, この奴隷解放宣言は南北戦争の最中に発布されたことから南北戦争の直接的な原因と考えられがちですが、エイブラハム・リンカーンにとって連邦政府を恒久的に守るために必要だったひとつの政治的な動機でした。南北戦争の目的や目標ではなく、あくまでも連邦を守るためのひとつの手段だったのです。, 事実、大統領としてのエイブラハム・リンカーンは、奴隷制度については賛成派でもなく反対派でもありませんでした。ただし、奴隷制度がある限り連邦政府は分裂状態になり、いつまでも連邦政府の統一が図れないと考えていたため、奴隷制度問題を南北戦争に組み込んだのです。, エイブラハム・リンカーンは奴隷解放宣言のなかで、解放された奴隷は適切な賃金を得られる仕事に就くことを奨め、アメリカ軍に受け入れる用意があることも盛り込みました。さらに、解放された奴隷が国内外で労働できる場所を確保することにも尽力しました。(いずれも周辺諸国の反対のため失敗に終わります), 1864年には、奴隷制度は共和政体や国家の安全の原理に反していることを理由に、憲法を改正して全州で奴隷制度を禁止することを議会に求めました。その結果、1865年1月にすべての奴隷を解放することを盛り込んだ憲法修正13条が成立しました。このことこそが、エイブラハム・リンカーンが奴隷を解放した本当の功績と言えます。, 1864年、エイブラハム・リンカーンにとって2期目となる大統領選を迎えます。民主党からはジョージ・マクレランが選出されますが、エイブラハム・リンカーンは自身が再選することはないと考えていました。その証拠に、1862年の中間選挙で民主党が勢力を伸ばしていたことや、南北戦争の長期化がありました。, しかし、結果的にエイブラハム・リンカーンは再選し、就任演説のなかで混乱時でも自由で公平な選挙が行われたこと、連邦の統一に向けて国民が結束する必要があることを主張しました。, 1865年4月、南部連合のロバート・リー将軍は食料不足と退路がなくなったことを理由に北軍に降伏し、実質的に南北戦争は終了しました。両軍合わせて60万人以上が命を落とす、アメリカ史上最も犠牲者が多かった争いになりました。, リー将軍が降伏した5日後、ワシントンD.C.にあるフォード劇場で現代劇を鑑賞中だったエイブラハム・リンカーンは頭部に1発の銃弾を受けて昏睡状態に陥り、1865年4月15日早朝に死亡しました。発砲したのは南部連合支持者のジョン・ブースで、エイブラハム・リンカーンは暗殺された初めての大統領になりました。, エイブラハム・リンカーンは奴隷制度を巡り対立を続けてきた南北が軍事衝突にまで発展した最も困難な時代に大統領を務めました。北軍を率いて南軍に勝利し奴隷を解放した人物として知られていますが「連邦を守ること」を一貫して通し、連邦を守るために強力なリーダーシップを発揮し、大統領の権限を行使しました。, 一方で、憲法や規制を超越した大統領の権限はアメリカ国民個人の権利を侵害した越権行為だったと見る声もあります。, エイブラハム・リンカーンは奴隷解放宣言によって南部諸州に根強く染み付いた奴隷による社会構造や経済的組織をなくして、現在のアメリカに繋がる国の基礎を築いたと言えます。奴隷解放宣言では、あくまでも連邦から脱退した南部諸州に限って奴隷を解放することを定めています。, 奴隷解放宣言も重要な出来事ですが、全州が奴隷を解放することを定めたアメリカ合衆国憲法修正条項第13条および第14条もエイブラハム・リンカーンによる功績ですので覚えておくといいでしょう。, エイブラハム・リンカーンは聴衆を魅了する演説の天才とされていますが、なかでも最も有名な演説が1863年のゲティスバーグの演説です。ペンシルベニア州のゲティスバーグにある国立戦没者墓地の奉献式に参加した際に行ったもので、わずか2分程度の演説でした。, この演説では「人民の、人民による、人民のための政治を地上から絶滅させない」という名フレーズが生まれ、多くの人の心を掴みました。これによりアメリカは民主主義国家としての道を進むようになるのでした。, エイブラハム・リンカーンは現代でも最も偉大で、最も尊敬を集める大統領とされていますが、その背景には「アメリカ連邦国家を守る」ことに様々な形で尽力したことがあります。国を二分する事態にまで発展した奴隷制度を廃止して、現代にも繋がるアメリカ社会の基礎を作ったことこそエイブラハム・リンカーンの功績と言えるでしょう。, ・弁護士時代、毎日寝る間もなく一生懸命に働いたとされていますが、妻だったメアリー・トッドの気性が荒く、それを恐れていたためと言われています。・1860年の大統領選の際に11歳の少女(グレース・ベデル)から、存在感を出すためにあご髭を生やすように薦められて、あご髭を生やしたとされています。, 本記事は、2019年2月12日時点調査または公開された情報です。 Jo Jorgensen(LIB) アインシュタイン(英語の名言) / 斎藤茂太 / ピーター・ドラッカー(英語の名言) / エジソン(英語の名言) / ソクラテス(英語の名言) / ニーチェ(英語の名言) / ダーウィン(英語の名言) / 孔子(英語の名言) / ルソー(英語の名言) / ガリレオ・ガリレイ(英語の名言) / ニュートン(英語の名言) / アリストテレス(英語の名言) / プラトン(英語の名言) / エマーソン(英語の名言) / 野口英世 / ジークムント・フロイト(英語の名言) / パスカル(英語の名言) / 老子 / 荘子 / カント(英語の名言) / モンテスキュー(英語の名言) / 湯川秀樹 / サルトル(英語の名言) / エーリッヒ・フロム(英語の名言) / デカルト(英語の名言) / ジョン・ロック(英語の名言), 【ビジネスパーソン】